偕楽園 水戸の梅まつり ~梅酒大会&茨城県近代美術館~

「偕楽園」

昨日はいいお天気だったのだが仕事だったので、日曜につじつまを合わせる事に。偕楽園の梅まつりが始まっているので程良い時間に電車で出発。

ホントは臨時駅の偕楽園駅に降り立ちたい所だが、下り列車用のホームしかないので水戸駅から偕楽園行きのバスで偕楽園へ。程なく偕楽園に着きまして…

「水戸の梅大使」まずは偕楽園お隣の「常磐神社」へ。気分がいいので「水戸の梅大使」の笑顔を頂いたりなんかしつつ…珍しく人間を正面から撮るなど。で、いきなり本日のメインイベント「梅酒大会2013」へGo!

お前…実のところ梅見に来てないだろ?(爆)

30分総入れ替え制の梅酒飲み放題のこのイベント、幸い早めの到着だったのでさほど待つ事なく場内へ。

「梅酒大会2013 会場」

ずらっと並んだ梅酒、総数何と157種類っ!ここは桃源郷かっ?!

はたまたアルカディアなのかっ!?(宇宙の海は~俺の海~♪)

「吟香梅般若刀」「杉能舎ヨーグルト梅酒」「百助 生姜梅酒」「レモネード梅酒」「百年梅酒プレミアム」「紀州 完熟みかん梅酒」

とてもじゃないが飲んだ梅酒全部を写真に撮っている余裕は無かったので、飲んでみて気に入った梅酒の写真をずらっと御紹介。梅酒というと焼酎に漬けてあるイメージが強いんだが、日本酒に漬けてある梅酒ってのも結構あるんだね。なるほどなるほど…

「和紅茶梅酒 クレハロワイヤル嬉野アールグレイ」

個人的に一番気に入ったのがこちら「和紅茶梅酒 クレハロワイヤル嬉野アールグレイ」。梅酒にアールグレイがこんなに合うとは思ってもみなかった。これはいいっ!

(注)紅茶と書かずにアールグレイと書いたのは…その方が通っぽいから…(爆)

そんな訳で梅酒大会で本日の全行程の95%を消化して(コラ)いよいよ偕楽園へ。

「偕楽園 白梅」こんな感じに梅が綺麗に咲いてました。

って…そんだけかよっ!(爆)

偕楽園を散歩しながらそろそろ早めの昼飯へ。

「水戸印籠弁当」「水戸印籠弁当中身」

今回は水戸的にいかにもってな感じの「印籠弁当」を買ってみた。パッケージに包まれた?状態で千波胡方面の梅と一緒に写真を撮った後、印籠を模した二段弁当を横にして写真を撮ろうとしたら…

見事に事故りました…(涙)

そんな訳で2段目のおかず類は蓋に裏返し。ホントはもっと美しいはず。あぁ。。。ま、幸いな事におかずをぶちまけた先がデイパックの上だったので3秒ルールで救出してパクリ。もちろん美味しく頂きました。春の青空の下、お弁当食べるのは幸せだよね。

「偕楽園 裏千家 お茶会」最後に裏千家のお茶会の様子を眺めたりなんかして偕楽園からさようなら。

ぽかぽか陽気の偕楽園に程近い千波胡湖畔を散歩していると…突如物凄い風が吹いてきた。

茨城県近代美術館「二年後。自然と芸術、そしてレクイエム」そんな訳で急いで茨城県近代美術館へ入店…ではなく入館。茨城県近代美術館では「二年後。自然と芸術、そしてレクイエム」という特別展を開催中。

この催しの最大の呼び物は横山大観の大作「生々流転」という全長40メートルを超える水墨画なのは間違いない。もちろん俺も拝見した。…で、感想はと言うと…

横山大観…実はギネス狙っただろう?(やめろっ!)

何故この特別展にこの大作が展示されているかというと実はこの作品、震災と深い関わりがあるそうだ。この大作が初公開されたのは、かの関東大震災の僅か3時間前。結局その僅か3時間で公開が打ち切られたという作品だそうだ。

俺なりの感想を。正直言ってこんなに長い水墨画を目にする事は俺の人生的には後にも先にももう無さそうだ。素朴な風景と荒々しくそびえ立つ山々。そしてそこに流れている川と時折顔を見せる人々の暮らしの一コマ。北茨城の景色(やっぱり六角堂あたりなのかな?)がモチーフになっているらしい。で…

横山大観…やっぱりギネス狙ったんだろう?(だからやめろっ!)

過去幾多の震災に見舞われてきた我が国日本。芸術家の方々に与えた影響も大きい。関東大震災前とその後の作風ががらりと変わっている方々の作品や、東日本大震災後に作られた作品を見ながら俺なりに考える…

我々は災害と共に生きてきた。望むと望まざるにかかわらず…と。

「3.11 ユニセフ東日本大震災報告写真展」特別展を見た後は、同じく茨城県近代美術館の一階で開催されている「3.11 ユニセフ東日本大震災報告写真展」へ。

今回の震災の報道写真を普段では見る機会の無い大きなサイズで多数展示している。各写真の解説は言葉少なだが…写真を見るだけで十分伝わってくる。

明日で二年なのか…

自らの非を認める事は、そんなに大変な事ですか?

何やら物騒なタイトルではあるんだが、言いたい事の内容的にこれでいいんではないかな?

ここ数年、色々な話を聞くにつけ感じる事がある。昨日までは(昔は)こう言っていた(思っていた)が、気が変わったという事を言い出せない雰囲気というか仕組みというか。

こんな事を考え始めた理由の一つにSNSの普及があるのは確か。届くかどうかは別にしても、リアルタイムに自分の思っている事、感じている事を主張できる基盤は整った。同時に誰もがその主張をさかのぼって参照できるようになっている。

かつてのパソコン通信と同じようにキーボードで打ち込んだ言葉で喧嘩が起きたりするのは仕方無いというか当然の事として…気になるのはその後。

ゼブラーマンじゃないんだから白黒はっきりってな展開にはならないのは分かるんだが、公的機関の発表がある度に「結果を操作した」だの何だのっていう考え方をするのはどうなんだろうか?身近な話では前回の衆議院選での結果が自らの望む結果では無かった途端に「陰謀だ」だのなんだのかんだの。 俺の言葉で言わせてもらえばこうだ。

「要するに、お前ら反省しないからそういう結果になったんだろ?」

お気に入りの同じ意見の方々をSNSで囲い込んで、言うだけ言って具体的には何にもやらず、結果にだけは文句を言う…そんな場面を見掛ける事が最近多い。

結果論としてそういう「村」っぽいやり方は世の中の仕組みには反映されていないので緊急性は無いんだが…潜在的な不安として「自らの非を認める」事を良しとしない方々が多いのでは無いかという事。

俺自身は「自らの非を認める事」に対して何の遠慮も無い生き方をしているつもりだ。その場で罵倒されようが何だろうが自らの非は自らの非。

それの何が怖いんだ?